――――……。
これらに対する答えは、いつだってこうさ。
そう、往々にして、そもそもなにも手を着けていない。
そしてその言い訳に、「時間」や「忙しさ」が使われる。
いや、やってないこと自体はいいんだ。
どこぞの根性論馬鹿のように、とにかくなんでもかんでも「やろうよ! すぐやろうよ!」と言うつもりは私はないし、場合によってはやらないほうが良いこともあることくらいわかっている。やらないことだって、立派な選択だ。
だだ、やってない理由として「時間」や「多忙」を挙げるのは違うだろう。
言ってる本人も気づいていないのかもしれないが、時間とタスクの関係性を考えるならば正しくは「やる気がないからできない」と表現すべきである。
なぜならば――……。
以下に詳しく、説明しよう。
「時間がない」が誤りであることを証明しよう。
1日の時間は全員が皆同じだけ持っている。違うのはその「使い方」だ。
まず大前提として、時間は誰にも平等に与えられていることを認識してほしい。どんなに偉人であろうと、どんなに無能であろうと、1日は等しく全員に24時間しかない。
なのにこなせる量や出した結果に差が付くのは、時間の絶対量が原因ではなく、
「時間の使い方」や「そもそものタスクの量と質」、「本人の能力と意志(意欲)」、「使える道具や富の差」、「動かせる人の数と質」、「持っている権限や裁量」などに差があるからである。
これらの要素によって、それぞれの「生み出すバリュー」に大きく差がでるのだ。決して時間の絶対量の問題ではない。
さて、今のはあくまで「生み出すバリュー」という”結果”の話しだが、今回のテーマである「そもそもやるかやらないか」の物事の導入部分の話しであればコトはもっと簡単だ。
これはもう、「本人の意欲」とそこから生じる「時間の使い方」の問題でしかない。
というのも、1日は皆平等に24時間しかないことは先に述べたとおりであるが、その限られた24時間の中でみんな自分の時間の使い方の優先順位を決めて行動しているからだ。
たとえば、働くこと。
――寝ること、食べること、趣味のこと、友達と遊ぶこと、彼女と親睦を深めること、etc……。それぞれに優先順位を決めて、皆予定を立てている。
それがふつうであり、当たり前なんだ。
できないのは単に優先順位が低いだけ
やることがいっぱいあろうがなんだろうが、1日で全部終わる量じゃなかろうがなんだろうが、優先順位が高ければそれはできるんだ。少なくとも取りかかることはできるんだ。
だって1日に与えられた24時間の中から、最初に時間を捻出できるから。
逆に時間がなくて取りかかれないのはつまり、別のことに優先的に時間を振っているせいで時間が取れないだけなのだ。
つまり、「時間がない」という言葉は本質的には全くの嘘である。
優先順位を低く設定されてる時点で、本当にないのは時間ではなく「やる気」。よって「やる気がない」と言うべきなんだ。
……すると、こんな反論がくるだろうか。
なるほど確かに筋は通っている。
だがな、世間ではやるやると言いながらいつまで経ってもやらないことを「やる気がない」と言うんだよ。
いつかやる、いつかやるからと言いながらいつまで経ってもやらないことを、「やる気がない」と解釈するんだよ、世間ではね。
――とはいえ、だ。
だからといって、四の五の言わずにやれとは私は言わない。
「やらないこと」もまた選択の一つだし、1日に24時間という限られた時間の中でやりくりしなければならないからこそ「やらない選択」の重要性も知っている。
同時に休息の時間も大事であることも私は知っている。寝る間も惜しんでやれば~なんて根性論はあまりにも前時代的で、非生産的で、なにより非健康的で、くそくらえだ。
私の主張はただ一つ、時間を言い訳にすべきではないこと。
自分が優先順位をどう付けたかの個人的な問題を、時間という絶対的かつ誰にでも公平な事象の問題へと擦り付けをしてはいけない。
それは誰でもない、あなた自身の問題なのだ。あなたのやる気の問題なのだ。
作家になりたいけど、作品を書く時間がない?
――違う、やる気がないんだ。
恋人がほしいけど、時間がなくて作る時間もない?
――違う、やる気がないんだ。
会社辞めたいけど、毎日残業で転職する時間がない?
――違う、やる気がないんだ。
今は時間がなくてできないけどいつか起業したい?
――いつかっていつだ。
今この瞬間が、今そこにあるすべてなんだよ。
正しく認識せよ。
ないのは時間ではない。やる気だ。
たったそれだけの、シンプルで呆気ないほどちっぽけで、そしてほかの誰でもないあなた自身の個人的な要因なんだ。
あなたが今、「いつかやる」をやっていないのは。