先日、とあるつぶやきがツイッターで流れてきた。以下のようなものだ。
校正さん(校閲さん?)の気持ちや立場もわからなくはないが、一人のプロ作家として、私は「瞳を閉じる」を誤った表現だとするのに反対である。
その理由の一つとして、「瞳を閉じる」は換喩(メトニミー)もしくは提喩(シネクドキ)的表現であることが言える。
換喩(メトニミー)とは……
比喩法の一。言い表そうとする事物を、それと関係の深いもので表現する修辞法。「金バッジ」で国会議員を表すなどはこの例。
出典|三省堂大辞林 第三版より
提喩(シネクドキ)とは……
比喩法の一。全体的・総称的語で部分的・特称的意義を表したり、部分的・特称的語で全体的・総称的意義を表す方法。
例えば、「太閤」で「豊太閤」(豊臣秀吉)、「山」で「比叡山」を示すのは前者の例、「小町」で「美人」の意を表すのは後者の例。出典|三省堂大辞林 第三版より
「瞳」と「目」や「瞼」は関係の深いものであるため換喩であると言えるし、部分的・特称的語で全体的・総称的意義を現しているので提喩とも言える。
辞書の例だけだとよくわからないと思うのでもう少し例を出すが、もしも換喩や提喩的表現を間違いだとするのならば、
「今度鍋を食べに行く」や、
「俺さあ、意外と小説とか読むんだよね~。今も村上春樹読んでるし」や、
「ウワー忙しすぎて手が足りないわー」
なども誤りとなってしまう。
だって、厳密には食べるのは鍋ではなく鍋の具だし、村上春樹は作者であって読みものではないし、足りないのもほんとうは人の数だろう。
これらはいずれも換喩・提喩的表現であるが、決して文法的に間違った表現方法とは言えない。
もしもこれらを不正解とするのならば、「瞳を閉じる」どころか「目を閉じる」すら不正解である。だって、閉じるのは厳密には「瞼」だからだ。
この出版社では、たとえば「キミは太陽のように笑う奴だ」といった比喩表現に対しても、『※太陽は笑いません』と指摘が入るのだろうか。いやだぞそんなとこ。
そしてさらにもう一つ、「瞳を閉じる」が間違った表現ではないことを示す理由がある。
それは、言葉とは――表現とは――
どれだけ文法的に正しかろうと読み手に意味が通じなければ不正解であるし、
その逆に意味が通じるのであれば文法的に間違っていようが表現として正解だからだ。
「瞳を閉じる」は、一般にじゅうぶん意味の理解できる一種の慣用句であるため、そういった理由からも間違いであるとはとうてい言い切れない。
以上二点が、「瞳を閉じる」を間違いではないとする理由である――が、
ちょっと待ってほしい!
確かに「瞳を閉じる」は表現的に間違ってはいない。少なくとも私はそう考えている。
しかし、それと同時に”使うべきではない表現である“ことも併せて述べたい。
その理由については、以下に説明しよう。
「瞳を閉じる」は間違った表現方法ではないが、使うべき表現でもない理由
言葉の常用性について
書き言葉と話し言葉の差異はあれど、言語表現においてふだん使わない言葉は極力使うべきではない。これは、ある程度真っ当に経験の積んだ作家であれば、ある種のマナーや常識として自然と身についている考え方だろう。
もちろん、なにか特殊な意図を孕んだ場面や、そういった表現をするキャラクターの一人称など、理由があってわざと使う場合もあるし、それは問題ない。
しかし、やはり、特に事情もないのに常用すべき表現ではないだろう。「瞳を閉じる」は。
だって、ふだんの言葉遣いで使うか? それ。
「あー俺、眠てぇから瞳閉じるわー」とか、
「ハーイ、今からちょ~~っとだけ瞳を閉じてくださいね~」とか、
そんなのふだんから使ってたらクサすぎるだろ!
そりゃ書き言葉と話し言葉の違いはあるけれど、しかしそれを考慮してもなお「目をつぶる」でいいだろう。わざわざそんなクサい・クドい表現を常用する必要はない。
さて、少しワナビ(※作家になりたい人のこと)へのアドバイスになるが、
特殊な意図をはらんだ場面でもないのに特殊な表現を常用してしまうと、本当に際だたせたい言葉が埋もれてしまうんだよ。
これは初心者がよくやる言葉の使い方だから、覚えておくといい。覚えておくことで、あなたの文章力はまちがいなく上がる。
特に文章全体がポエムみたいになってるやつ、おまえに言ってるんだぞ。